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核持込み密約文書の破棄問題 歴史の証拠を隠滅

情報公開法が施行されるときに私がもっとも恐れていた事が実際に起きてしまった。
私見として読んでもらいたいのだが、私は情報公開法は文書管理とワンセットだと考えている。
文書管理とは、不要な文書は一定期限で廃棄し、必要な文書を管理するということだ。

情報公開法が施行される準備段階として、国の省庁では、文書管理の権威者を招き、文書管理についての指導が行われていた。

その時に、必要な文書と無駄な文書の整理をするように指導されていた。ただし、必要か不要かの判断は、この「権威者」がおこなったのではない。あくまでも現場の人間が要・不要の判断をするのだ。これは文書管理の基本である。

ただ私には一抹の不安があった。官僚が恣意的に重要文書を破棄してしまったら後世の人間は、永遠に歴史的事実を知る機会も、研究する機会も失われてしまう。情報は官僚の手にだけあり政治家さえも騙される。総理大臣さえも騙される恐ろしい社会になってしまう。そんな事がおきる可能性は充分にあった。それが私には、とても不安だったのだ。

しかし今回の「核持込み密約文書の破棄問題」で、私たちの国がそのような国であった事が明らかになってしまった。(明らかになったのだから、一筋の光はあるが)

歴史を正しく後世に伝える事はとても大切な事なのだ。たとえ今は明らかに出来ない事でも、たとえば100年後には国民や研究者に「事実」を検証できるように、必要な文書を残しておく事は、絶対に必要で、これは侵してはならない事だと思う。

私たちも、私たちの子孫も、未来は予見できない。未来を決定するかもしれない判断を迫られるときは、歴史から多くのことを学び判断をするのだ。

歴史的文書を破棄してはならないもう一つの理由がある。私たちは理想を実現するためには今の自分たちがどのような姿であるのかを正しく知る必要がある。私たちの社会がどのような実態であったのか、私たち自身の本当の姿を正しく知るためには、その時におこった事実を正しく記した文書が絶対に必要なのだ。

私はこの問題では、核密約があった事を隠していたことについては、あえて問題にしないでおこうと思っている。「密約」であったことに、むしろ救いがあるではないか。正式なものではないという見方もできるのだ。

しかし文書を破棄してしまい歴史的検証をする機会を永遠に奪ってしまったことに対しては絶対に許せない。

破棄された需要文書は、核密約関係の文書だけではないだろう。いったいどれだけの歴史的事実が闇に葬られてしまったのか。

少なくとも私たちは、ある一定期間について、私たち自身の社会の本当の姿がどうであったのかを知る機会を永遠に失ってしまった。

このような事は二度とおこしてはならない。

公文書管理法案は、平成21年6月24日の参議院本会議でで採決された。
この法案では、行政機関の長は、保存期間が満了した行政文書ファイル等の廃棄について内閣総理大臣の同意を得なければならないものとすることを主な内容とする修正が行われているそうだ。

文書管理法案について、年金記録の管理の杜撰さを結びつけて論じるむきもあるが、年金記録のような煩雑な記録管理については、記録ミスの防止にはあまり繋がらないだろう。

ただ、歴史的事実の証拠隠滅という事態の防止には役立つかもしれない。行政文書が正しく保存されることは、国民が正しい情報を得て判断をし社会を作っていくために絶対に必要でこれを侵すことは許されない。民主主義、すなわち国民が政治の主役であるために絶対に必要な事だ。

文書管理が正しく行われるよう国民はチェックを怠らないようにしよう。


これは関連する余談だが、こんな新聞記事があった。(2009年7月1日)
「公共工事丸投げ、幕末も 横浜開港のドタバタ、古文書に」
http://www.asahi.com/national/update/0629/TKY200906290274.html

出展は朝日新聞だ。
ネット上ではいつまでも閲覧できるわけではないので、これだけは全文を引用させてもらう。

サイト内 関連記事:
http://hanakaikou.blog68.fc2.com/?q=%BB%FE%BB%F6%CC%E4%C2%EA

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---- 以下 朝日新聞の記事 -----

 1859年の横浜開港に際し、幕府によって急ピッチで整備された横浜と東海道を結ぶ「横浜道」。この建設をめぐり、現代の公共工事をほうふつとさせる「丸投げ」が横行、道路開通が危うく開港に間に合わない事態になっていたことが、旧家から見つかった古文書で分かった。完成は開港の1日前だったという。

 古文書は、幕末、横浜町の総年寄(町政の責任者)を務めた苅部(かるべ)家の横浜市保土ケ谷区にある子孫の蔵から昨年夏に見つかった。保土ケ谷宿の名主だった苅部清兵衛から奉行にあてた文書で、横浜開港半年後の安政6(1859)年12月23日付になっている。

 文書によると、現在のJR関内駅に近い吉田橋付近から西区の戸部に至る道路と橋3本の工事を、勘七という業者らが4470両で落札。勘七らはこのうち最も時間と費用のかかる橋の工事を、785両で平左衛門なる業者に丸投げした。平左衛門もさらに555両で半兵衛なる下請けに請け負わせたという。

 丸投げの過程で抜かれた金が多く、作業者に支払う工事資金が不足して工事は停滞。開港日に間に合いそうにない事態に陥った。このため、幕府は「諸外国に対して威光が保てない」と清兵衛に泣きついたという。

 清兵衛は自ら借金をして工事を進め、開港1日前の6月1日に完成させた。しかし、その後、清兵衛のもとには次から次と金の督促があり、困り果てて窮状を訴えたのが、今回の文書だったという。

 横浜開港資料館の西川武臣主任調査研究員は「幕府が開港したといっても、実際は住民の力が大きかった。丸投げして、費用を途中でピンハネしてしまう構造は150年前も今とほとんど変わらない」。文書は同資料館の企画展で7月26日まで展示されている。(佐藤善一)


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